空と涼子が去ったあと、Café yakhtarはいつもより静かで、どこか広く感じられた。 マスターもカウンターの奥で、少し所在なげにカップを磨いている。
そんな午後、ひとりの男性が店の前に立っていた。 作業着を着て、無精ひげを生やし、何となく場違いな雰囲気。 自分でもそれを自覚しているのか、カフェの前で足を止め、入るかどうか逡巡しているように見えた。
しかし、意を決したようにドアを開けると、カラン、と柔らかな音が響いた。 穏やかな声で「いらっしゃいませ。お好きな席へ」と誘うマスター。 男性はまっすぐに澄んだ瞳でマスターを見つめ、「なんか、不思議なCaféがあるって聞いて。死んだ人に会えるって」と言った。
マスターは少し含み笑いをしながら、「おや、そんなうわさが流れているんですか。 ここは、トルココーヒーとアイスコーヒーしかない……ただそれだけのCaféですよ」と返した。
「ですよね、幽霊に会えるCaféなんてあるわけないですよね。すみません」 男性は素直に頭を下げた。 「とんでもございません。お客様ですから」とにこやかに答えるマスター。
「じゃ、トルココーヒーをお願いします。俺、トルココーヒーって作るところを見るのも飲むのも初めてです」 「ほとんどのお客様が初めてですよ。ミルクしか飲まないお客様もいらっしゃいましたが、彼は特別でした」 マスターはそう言って、懐かしそうにハンギングチェアへ視線をやった。
「それにしても、この店、なんか落ち着きますよね。初めてなのに、とっても落ち着きます」 男性は店内を見回し、マスターがジェズベに熱した砂をならしていく指先の動きを見つめていた。
やがて、独り言のように話し始めた。 「俺、妹がいたんです。両親が事故で早く死んで、二人で養護施設にいました。 俺は、あいつのたった一人の肉親で兄だから、妹を守らなくちゃって必死でした。 何でも二人で分け合ったし、辛いことも寂しいこともあったけど、二人だったから乗り越えられたし楽しいこともあったんです。 俺は、大人になったらすぐに働いて妹と暮らして、学校にも行かせて幸せな人生を歩ませるのが夢でした」
そこまで話して、口調が苦々しくなる。 マスターは黙ってジェズベを優しく揺らしていた。
「だけど……妹だけ裕福な家庭に引き取られた」 男性は膝の上で手を強く握りしめた。 「金持ちの家に行ったから、俺みたいなのが兄だって知られないように連絡するなって。妹の新しい両親に言われたんだ。 今まで二人で助け合ってきたのに。そんな妹、こっちから願い下げだ。二度と会うかって言って、それからは一人で生きてきたんだ。 俺は天涯孤独なんだって、最初からそう思っていれば、辛くない、寂しくない。 俺は、一人でも十分生きてこれた……」
そのとき、デミタスカップに入れられたトルココーヒーが彼の前に置かれた。 ふいに夢から覚めたように、彼は手品のように現れたコーヒーを見て戸惑い、「これ、飲み方とかあるんですか」と素直に聞いた。
マスターがささやくように答えた。「粉が沈殿したら、上澄みだけを飲むようにしてください」 「へぇ、世界って広いんですね。コーヒーの飲み方ひとつでもいろいろあるんですね」 男性はそう言って、そっと上澄みだけを飲み、ホッと一息ついた。
「なんか、俺、唐突に喋っちゃいましたよね。こんな話、今まで誰にも話したことなかったのに…最後まで聞いてもらっていいですか。聞いてもらいたくなりました」 「もちろん」とマスターは静かにうなずいた。
