冷たい雨が降りしきる夜。雑踏の片隅で、小さな命がか細い声を振り絞るように鳴いていた。母の姿も、兄弟たちの温もりも、もうそこにはなかった。
「僕が小さくて弱いから、置いていかれたんだ……」
雨粒が体を叩きつけるたびに、幼い体は小刻みに震えた。誰もその声に足を止める者はいない。命の灯は今にも消えようとしていた。
最後の力を振り絞って鳴いた瞬間、不意に雨が当たらなくなった。うっすら目を開けると、柔らかな布に包まれる感触があった。
「君は一人なの?……大丈夫。私が死なせない」
優しい声が耳元でささやくのを聞きながら、小さな命は暗い世界へと沈んでいった。
次に目を覚ましたのは、白い壁と緑のリノリウムの床が広がる空間。銀色の台の上で横たわっていた。
「先生、助けてあげてください」
「……だいぶ衰弱しています。今晩が峠でしょう。もし今を乗り越えれば……」
「お願いします。やれることを、全部やってください」
弱々しい意識の中で、その声は力強く、どこまでも優しかった。
「もし助かったら、どうしますか?」医師が問う。
「もちろん、家族にします」
その言葉を最後に、小さな命は再び眠りに落ちた。
「もう大丈夫。彼は生きることを選んだよ」
「ありがとうございます。連れて帰っていいですか?」
「もちろん。ただし栄養食をシリンジで与えて。トイレもまだ自分ではできません」
「大丈夫です。看護師さんのやり方を見てましたから、私がやります」
踊るように弾む声とともに、小さな体は抱き上げられた。
「さあ、おうちに帰ろう」
連れて行かれたのは、真っ白なソファ、真っ白な毛布、真っ白なクッションに囲まれた空間だった。不思議と冷たさはなく、安心できる温もりがそこにはあった。
「そうだ、君に名前をつけないとね……うん、空(くう)にしよう。何もない、何物でもない……私の心みたいに」
そうつぶやいた声は、やがて小さく震えたが、思い直したように明るく言った。
「さあ、ごはんを食べて、元気になろうね」
こうして僕は「空(くう)」となり、彼女と二人の暮らしを始めた。
彼女が眠るときは寄り添い、出かけるときは窓辺で待ち、帰ってくる時間になれば玄関へ駆け寄った。彼女が喜ぶことが、僕の心を温めてくれた。
どれほどそんな日々を過ごしただろう。ある日、いつものように「行ってくるね。早く帰るからね」と笑って出ていった彼女は、それきり帰ってこなかった。
僕は窓辺で待ち続け、玄関に座り続けた。水もご飯もなくなったけれど、どうでもよかった。彼女さえ帰ってきてくれれば……。
やがて乱暴にドアが開けられ、スーツ姿の男たちと作業員が入ってきた。
「特に事件性はないですね。ただの事故です」
「遺族の連絡先を探そう」
「ペットを飼ってたのかな……」
空になった皿を見つめながらつぶやく声を背に、僕はそっと開いたドアから外へ出た。もう彼女は帰らない――それだけはわかった。
「もう一人にしないって言ったのに……嘘つき!」
涙を流しながら、僕は走った。走って、探して、ご飯の貰い方もわからず、どうやって食べ物を手に入れたらいいのかもわからずさまよっていると、僕より大きいいじわるな男に喧嘩を吹っ掛けられた。
空は逃げた。逃げて逃げて、彼女を探して探して……ついに、路地裏の小さな空き地にたどり着いた。もう動けない。
空き地の草むらはとても柔らかく、彼女の大好きな白い毛布のようだった。空は、その柔らかい草むらに体を預け、彼女と過ごした最後の夜を思い出していた。
彼女が好きだった真っ白な毛布のような草むらの柔らかさの中で僕は最後の力で、彼女との最後の夜を思い出した。
――あの時、彼女は言った。
「私の心は空っぽだったから、君を『空(くう)』にしたんだ。でも今は違う。君の真っ青な瞳は空そのもの。だから君の名前は『空(そら)』よ。空が私の心を満たしてくれたのよ。私は、真っ青な空を見上げれば、空を思い出すの。早く会いたいなって思うのよ。空、大好き!」
「僕は空(そら)だよ……」
そうつぶやき、静かに目を閉じた。
「空(くう)」が「空(そら)」になって、どれほどの時が過ぎただろう。ふと空が目を覚ました時、かつての空き地にはCafé yakhtarがあった。Café yakhtarは、彼女の部屋のように白くはないが、同じような暖かさ、懐かしさがあった。空は、ここにいれば、彼女に会えると確信めいたものを感じる。
空は恐る恐るドアを開ける。カラン、とカウベルが鳴り、暖かい香りが空を包む。その瞬間、マスターの穏やかな声が聞こえた。
カウンターの奥でマスターがそっと動く。性別もはっきりとはわからない、細くしなやかに動くその手の持ち主は、優しい声で言った。「好きな席にお座り」
そして、「ここは大丈夫ですよ」と、マスターがまるで心を見透かすように話しかける。 「ここはコーヒーしかないんだけれど…君には温かいミルクを用意しましょう」 そう言って、少しぬるめのミルクを空の前に置く。
こうして、空の物語は、Café yakhtarで始まる新しい物語へとつながっていくのだった。
