涼子が小さな机で震える手を抑えながら便箋に文字をつづったのは、兄の居場所がわかってから、しばらく経った頃だった。 電話では拒絶されるのが怖い。
けれど、手紙なら返事がなくても「届かなかったのかもしれない」と言い訳できる。そんな淡い期待と祈りを込めて、彼女は最愛の兄へ宛てて手紙を書いた。
封をして、ポストに投函したその帰り道だった。急ぎ足で角を曲がった瞬間、視界が白く弾ける。
ブレーキ音、誰かの叫び声。次に意識した時、涼子は冷たい闇の中にひとり立っていた。 自分がどこにいるのかもわからず、ただ足だけが先へ進む。重い霧に包まれた道を、行き場もなくさまよい続けた。
ふと、闇の中に一人の男性の姿があった。穏やかな瞳で、まるでずっと前からそこにいたかのように立っている。 「ここでは、みんな迷子になんです。でもね……あなたみたいな人のための場所があるんですよ」 低く優しい声に導かれるように、涼子は耳を澄ます。
「Café yakhtarという灯りをきっとあなたは見つけられる。あなたが本当に会いたい誰かがいるのなら。」「おかげで、僕は先に進めます」
男性はそう言うと、霧の向こうに溶けるように消えた。残された涼子は途方に暮れながらも歩みを続ける。
どれほど彷徨っただろう。遠くに、ぽうっと暖かな灯が浮かんだ。 近づくほどに胸が熱を帯びる。懐かしく、失われた日々のぬくもりに似ていた。 そうして、辿り着いたのが――Caféyakhtarだった。
カラン、とカウベルの音が響く。 ドアを開けると、そこには初めてなのに、変わっていないと思える柔らかな光と、静かに微笑むマスターの姿があった。 「お帰りなさい。空が待っていましたよ」 その声に、涼子は胸がいっぱいになり、涙があふれた。
「空がいる…」
Caféの扉の横にあるハンキングチェアに目をやると、そこに空がいて涼子をじっと見つめる。
涼子は声にならない叫びを上げ、駆け寄って抱きしめる。 「空……会いたかった」 涙と笑みが入り混じる頬を空が小さく舐めた。まるで「もう離さないで」と言うように。
そして、涼子がここに来るまでの話をしたあと、 「もし、ここに……」 言いかけて、首を横に振った。 「いえ。大丈夫です。言葉にしてしまうと、叶わなくなってしまいそうで…」 その瞳に宿る光を、マスターはただ静かに受け止め、深くうなずいた。
涼子が空を抱き上げて店を出ると、雨はすでに止んでいた。 見上げると、空には大きな虹が架かっている。
涼子は笑顔で空を見つめながら、そっと囁いた。 「空、あの虹のところまで一緒に行ってみようね」
そして、マスターに向かって深くお辞儀をして踵を返した 涼子の胸に抱かれた空は、くりくりした瞳でマスターを振り返る。 マスターはただ、静かに温かな微笑みで二人を見送っていた。
