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Café yakhtar が紡いだ物語 第7話 前編 秘密

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老女は、ハイヤーのドアにかけていた手をそっと離した。夜のしっとりとした空気が、ふいに胸の奥に沁み渡るように感じられたからだ。

「少し歩いてくるから、悪いけれど、少し待っててくださる?」

そう運転手に声をかけて、車を待たせたまま石畳の路地へと足を踏み入れる。薄暗い通りの先に、小さな明かりがいくつも瞬いていた。まるで彼女を誘うように――。

その道を進むと、控えめな看板とステンドグラスの灯が目に飛び込んできた。扉を押すと、異国の物悲しい旋律が流れ、キャンドルの香りが鼻をかすめる。そこは、不思議な安らぎをたたえた小さなカフェだった。

「お好きな席へ」

逆光に立つマスターの姿は影のように朧げだった。老女はカウンターの中央に腰を下ろし、砂の上に小さなポットを置いたマスターの手元を眺める。

「ここは、トルココーヒーかアイスコーヒーしかありません」

「では、せっかくだから……冥土の土産にトルココーヒーをいただこうかしら」

「そして、ちょっとだけおばあちゃんの物語に付き合ってくださる?」

普段は、あまり口数が多い方ではないが、このCaféの雰囲気が老女の口を滑らかにする。いたずらっ子のように微笑んでから、老女はひと呼吸おいて、まるで内緒話をするように小さな声で語り始めた。

「私ね、若い頃は普通の事務員だったの。戦後の混乱期で、世の中はまだまだ落ち着いていなかったけれど、その職場で今の主人と出会ったのよ」

マスターは黙って頷き、砂の上で静かに小鍋を揺らす。その揺れに合わせるように、老女の声は柔らかく広がっていった。

「真面目で不器用で、でもとても誠実な人だった。二人で何度か食事をしたのち、ある日、銀座の老舗フレンチに連れて行ってくれたの。あの頃は“ビフテキ”なんて高級品で、庶民にはなかなか手が届かなかった。それを目の前に出されたときは、嬉しいやら緊張するやら……」

コーヒーの香りが漂う。老女の瞳は、遠い昔を映し出していた。

「その夜、彼は言ったの。『僕と一緒に生きていってくれないか』って。私は震える手でフォークを握りながら、ただ頷くだけで精一杯だった。そのあと、二人で初めてダンスホールに行ったのよ。ステップなんて全然わからなかったけれど、頬を寄せてチークダンスをした。それだけで、世界が輝いて見えたの」

初めてのチークダンス。最初はぎこちなく、ステップを踏むたびに笑いがこぼれた。けれど次第にリズムに身を委ね、彼の肩越しに見える夜景が滲む。頬を寄せ合いながら、心臓の鼓動が不思議と調和していくのを感じた。

その夜、確かに思った。
「この人となら、これからの時間を大切に紡いでいける」――。


こうして始まった二人の物語。その続きを待つように、静かな夜が更けていった。

マスターの手元で、コーヒーが小さく泡立った。老女は微笑みを浮かべながら、続ける。

「結婚してからは、旅行も贅沢もなかった。二人三脚で会社を立ち上げて、子どもを育てて……必死に働いたわ。でも、結婚記念日には必ずあのフレンチに行って“ビフテキ”を食べたの。どんなに忙しくても、それだけは欠かさなかった。私たちの約束だったから」

マスターは静かに老女の言葉を受け止めるように、コーヒーを差し出した。小さなカップに揺れる黒い液面が、老女の過去を映しているかのようだった。

一瞬、老女は言葉を切り、トルココーヒーの上澄みをゆっくり口に含んだ。その目に、ほのかな翳りが差す。

「子どもたちは立派に成人して、それぞれ家庭を持ち、孫もできた。会社は子どもたちに譲り、やっと二人でのんびりできる……いろいろなところに行ったり、美味しいものを食べたり…楽しみしかなかったわ。そう思った矢先に、主人は病で急に逝ってしまったの。夢の中に置き去りにされたみたいだった」

「七回忌が終わったころ、孫のひとりが言ったのよ。『今、女風っていうのが流行ってるんだよ。おばあちゃまも行ってみたら?』ってね。冗談めかして言ったんだけど、その時、私はふと思ったの。……あの頃の主人と、もう一度だけデートができたらって」

老女はくすりと笑った。キャンドルの炎が、その横顔を若々しく映し出していた。


マスターは口を開かなかった。だが、沈黙は会話以上の温かさを老女に与えていた。老女はその沈黙に守られるように、さらに声を落として語りかける。

「インターネットで調べてみたのよ。今どきのおばあちゃんは、パソコンくらい使えるもの。そこで見つけたのが、今日、デートをしたセラピスト。彼はね、主人の若いころに雰囲気がよく似ていたの」

老女はそこで言葉を区切り、カップを静かにソーサーへ戻した。

「――続きは、あなたが淹れてくれたこのコーヒーを飲みながら、お話ししてもいいかしら?」

マスターはただ、穏やかに微笑んで頷いた。

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