細い糸のような雨が、途切れることなく降り続けている午後。
いつものようにハンギングチェアでくつろいでいた空が、ふと誰かに呼ばれたような気がして外を見た。
カフェの前には、一人の女性が傘を差し、うつむき加減で立っていた。その姿は、今にも消えてしまいそうなほど悲しく儚げだ。
しばらく空はじっと彼女を見ていたが、やがて興味を失ったように夢の中へ戻ろうとした。その時――「からん」とカウベルが鳴る。
顔を上げると、先ほどの女性が寒そうに肩を抱きながらカフェの中に立っていた。入ったはいいが、どうしたらいいのかわからず迷子になったような表情を浮かべている。
「どうぞ。お好きな席へ」
静かで穏やかなマスターの声に、女性はハッと顔を上げた。そしてお腹を守るように両手を置き、そっとマスターの前の席に腰を下ろした。
「ここには、トルココーヒーとアイスコーヒーしかないんですよ」
女性は「カフェインレスの…」と言いかけて、すぐに諦めたように「そうか…」と小さくつぶやき、「では、トルココーヒーをお願いします」とささやいた。
マスターは黙ったまま、いつものようにジェズベを手に取り、静かに準備を始める。
「今日は、よく降りますね」
珍しくマスターの方から声をかけたので、空は思わず耳を傾ける。
「ええ。本当に。今日は、久しぶりに外に出たんです。入院していたので…」
なぜだか女性は、心の奥を語りたくなった。どうせもう二度と来ない場所だから、悲しみや後悔を打ち明けてもいい気がした。
「私、結婚していて、夫も私も子どもを望んでいました。なかなか授からなくて、不妊治療もして…やっと、妊娠したんです」
思い出すだけで、胸が熱くなる。苦しかった日々、心が折れそうになった治療、幸せそうに見えた妊婦たち…。それでも待ち望んだ命を授かった。
「夫も私も大喜びでした。その日のうちに両親にも報告して、泣きながら笑って…あんな幸せはなかった」
女性は、過去の一瞬の光景を思い浮かべる。夫と笑い泣きしたあの日のことを。
「最初は順調だったんです。エコー写真も見せてもらって。最近はCGみたいな映像まで見られるんですよ」
女性の声は少し弾んだ。マスターもわずかに微笑む。
「ところが、21週目で急にお腹が痛くなって、破水したんです。前日まで順調だったのに…」
その声は消え入りそうだった。両手はスカートを握りしめ、小刻みに震えている。
「すぐに病院へ行きました。でも何が起こっているのか、まるで理解できなくて…。医者に『このままでは超未熟児での出産になる。法律的に中絶が認められるのは21週と6日までだから、すぐに決めてください』と言われたんです」
聞いている言葉が知らない国の言葉のように感じられた。頭が真っ白になり、ただ通り過ぎていく音にしか聞こえなかった。
「中絶って…やっと授かった我が子を、自分の手で…?」
彼女の声は途切れ、トルココーヒーの湯気だけが静かに立ち上っていた。
