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Café yakhtarが紡ぐ物語:第6話 後編|新しい一歩

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最寄り駅で降りた女性は、帰り道にいつもと違う道を歩きたくなった。ふと横の路地を見ると、暖かい灯がともった小さなカフェが目に入る。思わず足がそちらに向いた。

ドアを開けると、室内には柔らかい照明と、香ばしいコーヒーの香りが漂う。カウンターに座ると、「ホッ」と一息つく。マスターの少しからかうような笑い混じりの声が心地よかった。「当店は、トルココーヒーとアイスコーヒーだけなんですよ」

女性は初めて試すことをしてみようと思った。「トルココーヒーをお願いします」

マスターが丁寧にコーヒーを淹れる所作を眺めながら、女性はこれまで自分が抱えていた感情を思い返す。甘くほろ苦い香りの上澄みを一口含むと、心の中で何かがほぐれていくのを感じた。

誰も何も語らず、静かに時間だけが流れていく。こんな時間を持ったのはいつぶりだろうか…女性は、目をつむり、ゆっくりコーヒーの上澄みをすすっていく。どれくらいそうしていただろうか。

マスターが「コーヒー占いをしてみますか」と問う声に目を開けて、カップを見ると、いつの間にか、沈んだコーヒーのカスだけになっていた。「私、初めて飲んだのに、上手に飲めたみたい」とちょっと楽しい気持ちになり、自然と「ぜひ、占ってください」と答えた。カップをソーサーに載せてひっくり返し、粉の模様を眺めるマスターの手元に、女性の気持ちは引き寄せられる。

「一人は一人じゃありません」マスターの言葉に、女性は静かに頷いた。視線をハンキングチェアに落とし、空の引き込まれるような瞳を見ながら「17歳のおばあちゃん猫だけは、連れて行かないと」と心に決めた。

「美味しいコーヒーとステキな時間をありがとうございました。なんか、すっきりしました」と女性はマスターにお礼を言い、ハンキングチェアにいる空に目を向けて、「あの子は連れて行くの」と自分に言い聞かせるように言って店を出た。女性の後ろ姿を空は、少し眩しげに見つめていた。

その日から、女性は新しい生活に向けて準備を始めた。貯金は多くないが、50代半ばの再就職も諦めず、何度も履歴書を送り、面接で落ちてもくじけなかった。そうして、ようやく得られた事務の仕事は自分の存在が世界に認められた証拠の様だった。

娘の家から電車で二駅、小さなマンションの一室を借りる。日当たりはほどほど、駅から少し歩く距離も、女性にはちょうど良かった。新しい部屋に入ったとき、窓から差し込む光に包まれ、ふっと息をつく。一人の孤独と、家族の中で感じる孤独は似ているようでまったく違うのだと、改めて感じた。

引っ越しの日、娘夫婦は手伝いに来てくれた。身重の娘は、椅子に座っているだけだったが、「近いから、いつでも遊びに来てね」「無理はしないで」と娘の分まで働いてくれている婿と一緒に笑顔で声をかけてくれる。女性は小さくうなずいた。このくらいの距離が、ちょうどいいのだろう。

娘夫婦は帰り際に「お母さんの部屋はあのままよ。いつでも帰ってきてね。」「この子のお世話もお願い」と大きなおなかに手をやって悪戯っぽく微笑む。女性も笑顔で「もちろんよ。仕事の帰りに寄れるときは寄るわね」と答える。

これくらいの距離がちょうど良いのだ。とりあえず今は…

新しい生活が始まると、慣れない仕事や小さな家事、買い物、部屋の整理などで忙しい日々だった。だが、心は少し自由になった。

たまに娘夫婦の家に寄り、一緒に過ごす時間も楽しいと感じられるようになった。これから、孫が生まれたら、もっと頻繁に訪れて娘を助けることになるだろう。

でも、「私には、私だけの猫が待っている場所がある」と思うだけで、心が軽くなる。家を離れることで、家族の関係も柔らかく再生されていくことを、女性は感じていた。

夜、ひとりの部屋で猫を膝に乗せ、カーテンの隙間から覗く月明かりの下で、女性は静かに呟く。「コーヒー占いって当たるのね」柔らかな月光に照らされた猫の毛を撫でながら、女性は穏やかな笑みを浮かべた。孤独はまだ完全には消えていない。それでも、彼女は新しい一歩を踏み出したのだ。

自分自身のための時間を持つこと、家族との距離を調整すること、そして猫と過ごす小さな幸せ。すべてが少しずつ、これからの日々を形作っていく。女性は静かに息をつき、心の中で自分に言い聞かせた。「もう少し、自分のために生きてもいいんだ」と。

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