翌朝、女性は決心して、メンタルクリニックのドアを押した。静かなピアノの音が待合室に流れ、クリーム色の落ち着いた壁と観葉植物が整然と並ぶ。どこにでもある光景のはずなのに、彼女には落ち着かない空気が漂っていた。
名前を呼ばれ、診察室に入ると、医師は落ち着いた声で「どうされましたか」と尋ねた。最初に出た言葉は、自然と口をついて出た。「たいしたことじゃないんです」
医師は何も遮らず、頷きながら話を聞いてくれる。女性は娘のこと、婿の優しさ、これから生まれる孫のこと、日々の雑事を吐き出した。「何も不満はない」と言いながらも、胸の奥の孤独の感触を少しずつ言葉にした。息をするたびに、心の奥の空洞がささくれが少しずつ現れる。
医師は静かにメモを取り、そして低く落ち着いた声で言った。「ストレスから離れないと治りませんよ」
女性は思わず目頭が熱くなる。ストレスの正体は、これまで大切に思っていた家族だったのだ。愛するからこそ、気を遣い、遠慮し、心が削られていた。
「家族との関係が、あなたの孤独の根源ですね」と医師は続けた。「親しいからこそ依存してしまい、心の自由を奪われてしまっている。無理に喜ぶ必要も、我慢する必要もありません」
女性は椅子に深く座り込み、静かにうなずいた。心の中でずっと感じていたもやもやが、言葉になった瞬間、少しだけ軽くなる。親友に愚痴をこぼすのとは違う、専門家に理解してもらえた安心感。
医師はさらに付け加えた。「症状として現れている動悸やめまい、ホットフラッシュも、心の疲労のサインです。まずは日常の負担を分け、あなた自身のための時間を持つことが大切です」
女性はその言葉に涙があふれ、頬を伝って静かに落ちた。今まで、自分の心を抑えて無理に笑ってきたこと、すべてを受け止めてもらえた気がした。
孤独の正体が、愛する家族であることを認めること。それは恐ろしくもあり、解放される瞬間でもあった。
診察が終わり、受付で会計を済ませると、待合室のピアノの音がいつもより柔らかく感じられた。外に出ると、季節を感じるの風が肌をなでる。雨上がりの道に光が反射し、街路樹の緑が鮮やかに見える。
女性はふと立ち止まり、深く息をついた。もう少し自分のための時間を持ってもいいのかもしれない。家族を愛しながらも、自分自身の心を守ることは、決してわがままではないのだ。
電車の窓から見える景色をぼんやりと眺めながら、女性は心に静かな決意を抱いた。自分の孤独に向き合い、少しずつでも新しい一歩を踏み出すこと。家族と自分との距離を調整しながら、これからの生活を再構築する。
夜、猫を膝に乗せ、静かに部屋の窓を開ける。月明かりが差し込み、柔らかな影が床に落ちる。女性は小さく息をつき、「これからは、自分の時間も大切にしよう」と呟いた。
診察室で医師から聞いた言葉が、心にじんわりと染み渡る。孤独の正体を知り、受け入れること。そこから新しい日常は始まるのだと、女性は静かに感じていた。
