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Café yakhtarで紡ぐ物語:第5話 前編 心のままに

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雨は傘をさすほどではないが、確かに身体を濡らす。男性は足早に歩きながら、ふと横の路地に目をやる。そこには、淡いオレンジ色の灯が漏れる小さな店があった。

忙しさに追われる日常の中で、心の片隅にひっそりとあった違和感が、その灯に導かれるように彼の足を止めた。

店の前に立つと、木製の扉に刻まれた不思議な文字と、ほのかに香るコーヒーの香りが、雨に濡れた冷たい空気と混ざり合う。扉を押すと、心地よい木の音とともに小さなベルが鳴った。

店内はほの暗く、暖色のランプが低く揺れている。壁には古びた本棚や、小さな植物、時折差し込む雨粒が光に反射してキラリと光る。空のハンキングチェアは静かに揺れ、まるで来店者を見守っているかのようだ。

男性は、一瞬躊躇しながらも、マスターから少し距離をとり、端から二番目の席に腰を下ろす。マスターは黙って彼の様子を見守りつつ、手元のコーヒー用具を整えている。スマホはいつもの癖で、サイレントにした上でスーツの内ポケットにしまう。

席に着くとマスターが、穏やかに「当店ではトルココーヒーとアイスコーヒーしかありませんが」と告げる。男性は、考えることもなく「トルココーヒーをお願いします」と言っていた。

「選択肢がないって言うのはいいな…」と男性は心の中でつぶやき、心を解放させる。すると、心に積もるさまざまな思いがゆっくりと浮かんでくる。会社では気弱な性格が災いして出世レースからは外れてしまったが、同僚と仲が悪いわけではない。

家では中学生の娘が一人。子どもの頃は「大きくなったらパパのお嫁さんになるの!」なんて懐いてくれていたが、今は会話も少ない。

妻と娘はとても仲良く、よく笑い合う声が聞こえる。多分、娘がいる家庭のほとんどが同じようなのだろう。その妻とも、たいした会話はしていないが、喧嘩もない。

何もかも普通で、何もかも不足もない。しかし、自分には何かが欠けている気がして、胸の奥に焦りが生まれる。

波風の立たない凪のような人生のまま、静かに終わってしまうのだろうか。そんな考えが頭をよぎる中、学生時代に仲間とバンドをやっていた頃のことを思い出した。

夜遅くまで未来の夢を語り合い、車で突然海まで行って、服を着たまま飛び込んで笑い合った日々。戻れないからこそ、その瞬間は美しいと自分に言い聞かせていた。

目の前のカウンターには、マスターが小さなジェズヴェにコーヒー粉、砂糖、カルダモン、シナモン、冷水を入れ、熾火にかけて砂の中で少しずつ温める様子が見える。

沸騰と静止を何度か繰り返しながら、コーヒーの香りがゆっくりと店内に広がる。男性はその香りに呼吸を合わせ、少しずつ落ち着きを取り戻す。

雨の音と、かすかに流れる異国情緒あふれる物悲しい旋律の音楽。窓に映る街の光と店内の暖かい明かり。彼の心は、仕事や家庭、将来への迷いに揺れながらも、この場所の静けさと香りに包まれて、少しずつ安らぎを感じ始めた。

目の前のコーヒーが沸騰するたびに砂の中で揺れ、上澄みだけを丁寧にカップに注ぐマスターの手元に、男性は自然と視線を送る。これはただのコーヒーではない。過去と未来、自分自身と向き合うための、静かで温かい時間だと感じられた。

ふと、スマホが震えた。学生時代の友人からの電話。目でマスターに断りを入れ、少し戸惑いながらも受話器を取ると、懐かしい声が耳に届き、心が少しときめいた。昔の仲間との思い出が、胸の奥で柔らかく蘇る。会話の中で笑い声が弾むたび、男性の心は凪のような日常から、少しずつ波を立てていく。

マスターは黙って見守り、必要以上に干渉することはない。ただ、カウンター越しに静かに息づく空気と、揺れる空を背にした佇まいだけが、男性に優しい静けさを与えていた。

やがて電話を切った男性は、深く息を吸い込み、目の前のトルココーヒーを見つめる。まだ答えは出ていない。しかし、このカフェで過ごす時間が、少しだけ未来への勇気をくれることを、彼は感じていた。

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