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Café yakhtar紡ぐ物語 第10話【ある家族の物語】 後編

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氷の入ったアイスコーヒーを静かに口に運ぶ男性がグラスを置いたとき、ドアのカウベルがカランと鳴った。入ってきたのは、40歳を過ぎた落ち着いた女性だった。女性は一瞬ためらったようにドアに手をかけるが、すぐに決意を固めるように店内に踏み入れた。空はその静かな緊張感に気づき、すっと息を飲む。

「まだ大丈夫ですか?」女性が柔らかく尋ねる。

「もちろん、どうぞ。お好きな席へ」とマスターは穏やかに答える。女性は迷わず男性の隣に座ると、テーブル上のアイスコーヒーを見て、「えっと…」とメニューを探す。

マスターは微笑みながら、「当店は、トルココーヒーとアイスコーヒーしかないんです」と言うと、女性は、もう一度、隣の席のアイスコーヒーを一瞥し「トルココーヒーをお願いします」と頼んだ。

マスターがトルココーヒーを準備する手元を見つめながら、女性は静かに話し始める。「今日、主人の13回忌が終わったの。だから、ごめんなさいね、お線香の香りが少し強いかもしれない」

マスターは首を振り、「いいえ、気になりません」と答えた。女性は深く息をつき、過去を回想するように続けた。「13年前、主人は仕事が忙しいのに無理に休みを取って、私と子どもを遊園地に連れて行ってくれたの。私は『ゆっくり休んで』と言ったのに、主人はせっかくの休みだからと頑張ったのよ。閉館まで遊んで、家族であんなに笑った時間は本当に久しぶりで、楽しかった」

しかし、帰り道の悲劇が彼女の言葉に影を落とす。「帰りは、疲れて私も子どもも寝てしまった。主人も疲れていたのに運転してくれて、居眠り運転で対向車と衝突してしまったの。主人はとっさにハンドルを切って、私と子どもを守った。主人は即死だったけれど、あの瞬間、命を私たちに残してくれたの」

男性は息を吞み、目を閉じて心の中で家族の姿を思い描いた。マスターの手元でトルココーヒーが静かに沸き立つ。空は彼の肩越しに、彼が抱える重苦しい罪悪感と、同時に希望の微かな光を見つめる。

「それから、私と子どもは二人で生きてきた。子どもは大学を卒業し、今ではしっかり社会人をやっているわ」女性はバッグから写真を出してテーブル置く。まるで、隣にいる男性に見せるように…そこには笑顔の息子と、ほんの少し微笑む女性の姿があった。「主人も隣にいるはずだった…でも、きっと見てくれていると信じているの」

男性の目からは、静かに涙が零れる。「そうか…僕が守ったんだ。僕の命で、家族を」「死んだのは僕だったんだ。良かった…」彼の声は震え、過去の後悔と現在の救済が交錯する。

女性は息子の話を続ける。「息子には可愛らしい彼女もできてね、まるで主人そっくりの笑顔と同じようなしゃべり方をするから、私はいつも驚いちゃうけれど、主人がいる様な気もして…嬉しいやら悲しいやら…自分でも、おかしいのよ。」と言って、笑う目じりには優しい皺が現れる。男性は、妻の言葉に耳を傾け、その優し気な横顔を見て胸の奥が熱くなるのを感じた。空はそっと視線をカウンターに向け、静かに彼らの会話を見守る。

やがてマスターがコーヒーを淹れ終え、女性の前にトルココーヒーを置く。香ばしい香りが、緊張の張り詰めた空気を少しだけ和らげる。女性はカップを手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。

苦く、少し甘いその味が、胸の奥まで静かに染み込む。一口上澄みをすすって「ホッ」と一息入れる女性を男性が食い入るように見守る。その目は、愛おしい人を包み込むように優しい。

「主人が生きていたら…今でもそう思うことがあるの」女性の目に潤む。「でも、命がけで助けてくれた命、しっかり生き抜くって息子と約束してるの」

男性は小さく頷き、深く息をつく。「僕は…家族を守ったんだ。そして、妻は息子を育ててくれた」

空はその言葉に静かに耳を傾け、カウンターの向こうでマスターが微笑む。「あちらの世界の時間とこちらの世界の時間は違うと言う話があります。こちらの数十年が、あちらではあっという間だそうですよ」

女性は「あら、じゃ、主人は、ちょっと休んでいるだけなのね」「私がおばあちゃんになって会いに行ってもわかるかしら」「ええ、きっと。」と微笑む前で、男性は思いっきりうなずいている。「絶対にわかるよ」

やがてマスターは、ソーサーに残ったコーヒーかすを見つめ、いたずらっぽく問いかける。「コーヒー占いをしてみますか?」

女性は微笑み、「あら、じゃあ、ぜひ」と答える。マスターがカップをひっくり返すと、かすがソーサーに広がり、彼女の未来を静かに語った。「いつの日か…」

女性はゆっくり頷き、「その通りね。当たるのね、コーヒー占いって。主人と来たかったわ。あの人、アイスコーヒーが好きだから、トルココーヒーを飲むのかわからないけど…」と言って、立ち上がり、隣の誰も座っていない席にあるアイスコーヒーを見つめる。

そして帰り際、空の頭をそっと撫で、「早く会いたいね」とつぶやき、店を後にする。

残された男性は深々と頭を下げ、静かに言った。「ありがとうございました。僕は、妻と会えるまでゆっくり待ちますよ。妻の土産話が楽しみです」「でも、ここは…」と問いかける男性にマスターは薄く笑って「ここは、あちらとこちらの狭間にあるカフェですよ…なんて、ただのカフェです」とささやくように答えた。

「また来ます」と言って去っていった男性にもマスターにも「また」はもうないことはわかっていたけれど、誰もいなくなった空間に向かって「お待ちしています」と言ってほほ笑んだ。

夜のCafé yakhtarには、静かに残ったコーヒーの香りと、少しだけ穏やかになった二人の心が漂っていた。外の世界の騒音は遠く、ここには静かな癒しと、新しい物語の始まりの気配があった。

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