Café yakhtarで紡ぐ物語:第5話 後編 心のままに
雨は小止みになり、窓の外には湿った夜の街の灯りが淡く揺れていた。男性は窓の外に目をやり、揺れる街の灯を見るともなく学生時代の友人と電話を交わす。懐かしい声に、胸の奥がくすぐられるように熱くなる。
つい笑みがこぼれ、あの頃の無邪気な自分を思い出す。しかし、時間は過ぎ、もう戻れないことも自覚していた。
電話を切った後、男性少し考えてから、意を決して家に電話をかける。「もう少ししたら帰るから…うん。夕食は家で食べるよ。今日はちょっと話したいことがあるんだ」と短く伝えると、向こうから柔らかい声が返ってきた。その声に少し胸が高鳴る。
過去も現在も、未来も、すべてを包む決断をこれからしていくための第一歩だと、自然に思えた。
窓からカウンターに目を戻すと、マスターはすでに準備を整えており、彼の席の前に小さなジェズヴェとカップが置かれていた。コーヒーの香りが濃く、深く、そして甘く広がる。
男性が友人と会話をしている間に、マスターが手際よくコーヒー粉、砂糖、スパイス、冷水をジェズヴェに入れ、熾火の砂の中に沈めていた。
泡が立ち、揺れ、また静めることを繰り返し、そっと入れたトルココーヒーは、優しげな湯気を立て、男性を待っていた。男性はそのコーヒーをを眺めながら、心の奥に沈む迷いや不安をゆっくりと受け止める。店内の異国情緒あふれる物悲しい旋律が、彼の思考を優しく導く。
コーヒーの粉が沈むのを待って、そっと上澄みをすすってみる。甘くそしてほろ苦い味は、これから自分が起こす小さな波を想像させる。
ため息をつき「美味しいんですね」と誰に言うでもなくつぶやいてみる。マスターも何も言わず、手際よく熾火と砂を整えている。波の立たない凪のような時間。でも、自分の中で何かが動いている。
「コーヒー占いをしてみましょうか」とマスター。男性は軽くうなずき、カップをマスターに渡す。マスターは微笑みながらソーサーをカップの上に乗せひっくり返す。そして、そっとカップを外し言う。「あなたが決めること…です」その言葉は重くもなく、しかし確かに胸に響く。
男性は目を閉じ、深く息を吸い込む。長い間、仕事や家庭、過去への思いに揺れていた心が、ここで静かに折り合いをつけようとしているのを感じた。
やがて彼は小さく微笑み、「家に帰って、バンドをまたやりたいって話してみますよ。笑われるかもしれないけど、家族と同じように昔の仲間は宝物だから。まずは、同窓会の余興からです」とマスターに笑いながら語る。未来への不安はまだ残るが、少なくとも一歩前に進む覚悟はできていた。
友人が興奮気味に語っていたバンド再結成は、どうなるのかわからない。趣味で終わってしまうかもしれない。それでもかまわないと思う。あの頃の気持ちをもう一度、味わえるなんて、なんて贅沢なんだろう。男性は、そう考えるだけで幸せを感じる。
できたら、その気持ちを妻が、家族がわかってくれればこれ以上の幸せがあるのだろうか。あの頃の気持ちを今、大切にしている宝物と共有できたら…
ソーサーに広がったコーヒーの粉を眺めていた男性がふと空に目をやる。ハンキングチェアに座る空は、静かに揺れ、まるで彼の決断を祝福するかのように存在感を示している。
男性は視線を下ろし、小さくつぶやく。「君も大丈夫」その声は店内の柔らかい空気に溶け込み、ほんの少しの温かさを胸に残した。
マスターはカウンター越しに微笑む。言葉は交わさなくとも、男性の心に寄り添い、これから歩む道をそっと見守っているように感じる。
店を出ると、雨は完全に上がり、夜の街は湿り気を帯びた光に包まれていた。男性は足取りを軽くし、ゆっくりとだが、しっかり夜の道を歩き出す。悩みも迷いもあるが、今の自分の決断を受け入れ、少しずつ未来へ進んでいける気がした。
それから少し経ったある日、店の奥でマスターと空が二人で、静かに闇に包まれていく外を眺めていた。マスターがふと口を開く。「この前いらした男性を覚えていますか」
空はそっとうなずく。声を出せば何か悪い結果が訪れるかのように、二人の会話は静かに交わされる。
「そう。彼は奥さんとお嬢さんにバンドを再結成して活動したいとお話しされたそうですよ」
「うん…」
「そうしたら、奥様は笑って『ぜひ、やりなさいよ。最近、あなた元気がなかったから、娘とちょっと心配してたのよ』と言われたそうです」
「そして、娘さんには『パパ、ドラマーやってたんだ。カッコいいね。でも、練習しないとね!』と言われたそうです」
「お二人とも、同窓会なのに何とか忍び込もうと頭をひねっているそうですよ」とマスターは暖かく笑った。
空も男性がドラムをたたく姿を想像して、自然に微笑んだ。夜の闇に包まれた店内に、静かで柔らかな安心感が満ちていた。
最初の一歩が同窓会の余興でも、一歩、進んだことは確かだから…

