雨上がりの午後、石畳の路地はまだところどころ濡れて、淡い光を反射していた。小さなアーチをくぐった先に現れるのが、ひっそりと佇む「Café yakhtar」。古びた木製のドアの上には、控えめなランプシェードが柔らかに揺れ、雨粒を含んだ空気の中でほのかなオレンジの光を灯していた。
ドアを開けると、カラン、と小さなカウベルの音が響く。そこは外の湿気や街の喧騒から切り離された異空間だった。磨かれたカウンター、所々に置かれたステンドグラスのランプ、そして異国情緒あふれる物悲しい旋律の音楽がかすかに聞こえてくる。時間がゆっくりと流れていくような空気に包まれ、訪れた者の心を優しく解きほぐしていく。
その日の客は、ひとりの女子大生だった。彼女は小さくため息をつきながら椅子に腰掛け、落ち着かない様子でカフェの中を見回した。少し頬を膨らませ、ペンケースをいじるように指先をそわそわと動かしている。
「……なんか、ここ、ホッとしますね。隠れ家みたい」
ぽつりとこぼした言葉に、カウンターの奥でカップを拭いていたマスターが静かに微笑んだ。その視線を追うように店内を見渡していた彼女の目が、不意に止まる。
ハンキングチェアに腰掛けている少年のような存在――空。すらりと伸びた肢体、しかしまだ少年めいたあどけなさを残した横顔。どこか現実から少し浮いているような気配を纏い、目を伏せながらカップを傾けている。
「きゃー!かわいい子がいる!」
思わず声が大きくなり、自分で口を押さえる。「なんか……すべてが一枚の絵みたい」
マスターは、そんな彼女の反応を面白がるように視線をカウンター越しに流した。女子大生は赤くなった頬を隠すように俯き、つぶやいた。
「もう、イヤになっちゃう。私の人生って最低……」
彼女の言葉は軽やかに響きながらも、その奥に沈殿した思いを隠しきれなかった。恋人と親友、二人同時の裏切り。うすうす感じていた束縛気質の彼に耐えかねて別れを切り出した矢先、寄り添っていたのは信じていた親友だった。
笑い飛ばすには、胸の奥が重すぎた。大学の友人たちに話せば共感は得られるかもしれない。でも、軽々しく同情されることに彼女はもう疲れていた。だからこそ、雨上がりの路地をさまよい、この小さなカフェへと足を踏み入れたのだ。
マスターが静かにグラスを置いた。透き通るデトックスウォーター。レモンの輪切りとハーブの葉が浮かび、淡い香りが彼女の鼻先をくすぐる。
「少し落ち着かれますよ」
一口含むと、冷たい水が喉をすべり、張り詰めていた胸の奥にひんやりとした隙間ができる。女子大生はようやく深く息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。
そのとき、マスターが小さな銅製の鍋――ジェズヴェをカウンターに置いた。
「こちらでは、トルココーヒーをお淹れしています。お試しになりますか?」
「え、なにそれ?初めて飲む!」
女子大生の瞳がぱっと輝く。まるで子どものような無邪気さに、マスターはわずかに口元をほころばせた。
ジェズヴェには、細かく挽いたコーヒー粉と同じ分量の砂糖、冷たい水、そしてカルダモンやシナモンが入れられる。マスターはそれを静かに砂の中に沈め、熾火の熱をゆっくりと伝えた。砂を動かし、泡立ちを見守り、落ち着かせてはまた寄せる。その所作はまるで祈りの儀式のように静謐で、女子大生は思わず息を呑む。
「……なんか、すごい。コーヒーを作ってるっていうより、物語を生んでるみたい」
カウンターの向こうで香りが立ち上り、甘くスパイシーな空気が漂い始める。その香りに包まれると、心の奥底の痛みが少しずつ和らぎ、彼女の思考は自然と過去へと引き戻されていった。
恋人と別れる時、彼の隣に立っていた親友の顔。何気ない仕草や笑い声。あの瞬間の自分の感情。悔しさと怒り、そして言葉にならない裏切りの痛み――。でも、彼のちょっとした不安を抱かせる様子を親友には伝えなかった。それが、心に小さな棘のようなチクチクとした罪悪感を感じさせる。
「わたし、間違ってたのかな……。あの子、あいつの性格、どこまで知ってるんだろう。どうするのが正解だったのかな」
もしかすると、彼の少し危険な感じを黙っていたのは、女子大生のちょっとした復讐心だったのかもしれない。
カウンターに突っ伏し、抑えきれずに低く漏れた声。その姿を見ながら、マスターはトルココーヒーを淹れる準備を始めた。まるで、厳かな儀式を行うような手つきを、見るでもなく見ていた女子大生の心は、少し落ち着いてきているのを感じる。